チェルシーの歴史

創設

1904年に当時陸上競技場だったスタンフォードブリッジアスレティッククラブのオーナーにH.A.Mearsが就任。当初、スタンフォードブリッジをフルアムに使用してもらおうと1年1500ポンドでオファーしたが、これを拒否されクレーブン・コテージに残ったことから、1905年にH.A.Mearsが会長としてチェルシー・フットボール・クラブを設立した。
当時のスタンフォード・ブリッジのスタジアム規模はクリスタルパレスに次いで2番目に大きかった。

南部リーグに登録しようとするがフルアムなどの反対にあい、拒否される。しかし、その後ゴールキーパーのWillie Foulkeなど当時のトップ選手数名と契約し、広くはたらきかけたことからリーグ参加の許可がおり、2部リーグへの参加を決めた。2年後には1部リーグへの昇格を成し遂げるが以後数年間1部と2部の往来を繰り返した。

歓喜

1955年にテッド・ドレイク監督の下、チェルシーはリーグ戦で初優勝を飾った。 しかし、翌年UEFAがヨーロッパナンバー1を決める大会として新設したUEFAチャンピオンズカップには当時世界ナンバー1のサッカー大国と自負していたFAに参加を阻止されてしまった。
結局チェルシーのヨーロッパデビューは58-59シーズンのインターシティフェアーズカップ(現UEFAカップ)まで持ち越しとなり、CLデビューに至っては99-00シーズンまで待たねばならなかった。

フーリガン、そして低迷

70年代に入ると、カップウィナーズカップに初優勝するなどチェルシーはファッショナブルなクラブとして人気を築き上げていった。しかし、ファンの多くは暴力的であり、この頃のチェルシーファンがフーリガンのさきがけと言われている。

80年代のチェルシーはすっかり低迷してしてしまっていて、借金も膨れ上がっていた。 82年にケン・ベイツが1ポンドでチェルシーを買収してから状況が一変する。89年には2部リーグで優勝し、以降常にトップリーグに在籍している。

外国人傭兵軍

93年にグレン・ホドルが加入し、プレイングマネージャーとなり95年にオランダトリオとして名を馳せたルート・グリット獲得を皮切りに徐々に多国籍軍へと変貌していく。ホドルがイングランド代表監督に就任したことでグーリットがプレイングマネージャーに就任したことでその流れが一層加速する。グーリットは持ち前のイタリア人脈を使い、ジャンルカ・ヴィアリ、ジャンフランコ・ゾーラ、ロベルト・ディ・マッテオなどトップレベルの選手を獲得していった。97-98シーズンにはワイズとヴィアリの造反でグーリットはチェルシーでの地位を追われ、ヴィアリがプレイングマネージャーに就任した。その年にカップウィナーズカップとFAカップの2冠を獲得し、ベイツ会長時代の黄金期が到来した。結局その黄金時代は長く続かず2000年に成績不振でヴィアリが解任され、クラウディオ・ラニエリが監督に就任した。ヴィアリ時代は毎年何らかのタイトルを獲得し、UEFAチャンピオンズリーグでは初出場ながらベスト8まで進出した。

ラニエリ時代は一言で言えば低迷期で良い選手はいるのだが勝ちきれない試合が続いた。ただ、後にチェルシーの過去の歴史での絶頂期の中心人物のランパードとテリーはこの時期にチェルシーデビューを果たした。
2002-03シーズンを最後にミスターチェルシーとして愛されていたジャンフランコ・ゾーラがチェルシーを後にした。そのシーズンのゾーラは開幕から好調をキープし、チェルシーでの最も良い成績を残して去っていった。そのシーズンは最終節でリヴァプールを降し、4位に滑り込んでCLの出場権を獲得。3ヵ月後、この結果によってチェルシーの運命が大きく変わった。

ロンドンのロシア革命

03-04シーズン開幕前。突然チェルシーが謎のロシア人に買収されたとの報道が出た。
当時のチェルシーは無理な補強など資金繰りが厳しく9600万ポンドの負債を抱えていた。UEFAチャンピオンズリーグに出るからと言って浮かれるているわけにはいかない状況だった。
しかし、前述の買収劇で36歳のアブラモヴィッチがオーナーになり、その状況は180度変わり、ロシアのオイルマネーによりチェルシーは移籍市場の主役へと躍り出た。ダフやベロンクレスポ、ムトゥ、マケレレなど世界の一流選手を高値で引き抜き実に1億ポンドもの移籍金を投じた。しかし、その補強も実らず、リーグ戦2位、チャンピオンズリーグでは監督の判断ミスもありベスト4で破れモナコに敗れた。

翌04-05シーズンにラニエリ監督は解任され、前年のチャンピオンズリーグでチェルシーを破ったモナコを決勝で下したポルトを率いていたジョセ・モウリーニョ監督が監督に就任。またも1億ポンド級の補強を行った。このシーズンは新監督、メンバーの入れ替えがあったということもあり、序盤は苦戦したが、ロッベンが復帰してからは安定感も出て、50シーズンぶりの優勝を達成した。

翌シーズンも大型補強を行い、悲願のチャンピオンズリーグ制覇を狙ったが、前年度破ったバルセローナにトーナメント1回戦で破れであえなく夢は潰えたが、コミュニティシールドの勝者は優勝できないというジンクスを覆しリーグ戦ではほぼ無敵の強さを誇り、独走で連覇を達成した。

06-07シーズンはシェフチェンコとバラックという超大物の2人を補強をしたが、夏・冬の移籍市場での失敗などがあり、 怪我人の穴を埋めきれず終盤まで粘ったがリーグ優勝を逃した。しかし、カーリングカップとFAカップの国内カップ2冠を達成しモウリーニョは3シーズンでイングランド国内の全てのタイトルを手にした。

07-08シーズンはオーナーの離婚もあり、自由移籍で数名の選手を獲得するなど極力お金を使わず補強するという方針でシーズンが開幕した。事件が起こったの9月20日。18日のローゼンボリ戦に引き分けたことと観客が2万5千人だったことをアブラモヴィッチが懸念を抱き、双方の合意の下に契約を解除。一説にはモウリーニョとスカウト担当のフランク・アルネセンの関係が悪かったことが契約解除の原因の一つではないかといわれている。

モウリーニョの後釜には開幕前にポーツマスからスポーツダイレクターとしてやってきていたアヴラム・グラントが据えられた。初戦のユナイテッド戦には負けたものの一度は死んだかと思われたチェルシーをカーリングカップ、プレミアリーグ、チャンピオンリーグの3つのコンペティションで2位に導いた。
しかし、内容の悪さ、勝ちきれない勝負運の無さから契約を3年残して解任され、2008年7月1日から前ポルトガル代表の監督であったルイス・フェリペ・スコラーリが監督に就任し、リーグの覇権奪還、そして、悲願のチャンピオンズリーグ制覇に向けて新たに歩みだした。